一喜一憂 それさえも楽しむ

こんにちは。

ヨガのクラスでは様々なポーズを学びますが、その中でもベーシックなポーズがあり、クラスやインストラクターが変わっても、必ず取るポーズや、その流れがあります。

ようやくベーシックなポーズの名前を覚え、インストラクターさんが「さぁ次は○○のポーズに行きましょう!」と声を掛けられると、「あぁ、あれだな」などと頭でポーズを思い浮かべる事が出来るようになりました。

私は暗記系が比較的苦手で、ポーズ名はうろ覚えだし、一連の流れで身体が覚えているポーズもあり、その場合はポーズ名を覚えていなかったりします。

それでもヨガを十分楽しめてますけどね。

学ぶ機会の頻度が高いポーズでも、「あぁ、今日は身体が反応してくれている」「今日は身体と呼吸の連動が素晴らしく、とても心地よいな」と感じる日がある反面、「あれ?前回は結構心地よかったのに今日はどこか違和感を感じるな」なんて日もあったりします。

自分の身体のどこかが反応出来ていない。
内臓の調子がイマイチ。
脳が覚醒していない。

など、自分の身体や心、脳に関係している場合と、

天候
気温
その場の雰囲気

など、周囲の要因に反応してしまっている場合があるのだと思います。

ヨガは身体を動かすのと同時に考え方や感じ方なども学べます。

人間は感情を持った生き物。
自分の周囲で起きる現象に反応し、感情が生まれます。

「あれ、前回はうまくポーズが取れて心地よかったのになぁ」と思うとき、そのポーズを取った際に前回同様、心地よい瞬間が来るとか自分はあのポーズが上手く取れるようになっている、などなど、自分や状況に対する期待が膨らんでいるので、期待していた瞬間に巡り会えないと落ち込むほどではないにしろ、違和感を感じてしまいます。

嬉しさや怒り、寂しさや悲しさ。

感情が生まれた際、その感情をさらけ出してしまう場面もあります。
でも、その感情に引っ張られてしまった場合、短期的にはスッキリしたとしても、周囲の人を傷つけたり、騒がせてしまったり。。。吐き出した感情がまた自分の元へ戻ってくるような、そんな経験をしたことってありますよね。

感情が生まれるのは仕方がない。

例えば怒り。

怒っている自分を俯瞰して見つめる。
「なぜ私は怒っているのか?」
「何に対して怒っているのか?」
「どういう時に自分は怒りやすいのか?」

もう一人の自分が怒りに満ちている自分を冷静に見つめる。
そうすると自分という存在が浮き上がってきます。

「あぁ、私はこういう事をされるのが嫌いなんだな」
「私はこういう瞬間にイラッとするんだな」
などなど。

次は怒りの感情を自分から切り離す。

そして切り離した怒りを流し去る。

慣れないうちは難しいし、1度で流し去れない、心の奥底深くに沈んでしまう感情もあると思いますが、その感情が起こった際に、同じ過程を繰り返し、自分の感情に対処してみる。

そう簡単な事ではない場合もあります。
私も幾つかまだ流し去れていない感情があり、時々当時の事をリアルに思い出し、腹が立つこともあります。

でも、それらは過去に起きた事で、もう2度と自分には起きないことです。

そして何度かこの過程を繰り返していくうちに、「なんだぁ、こんな事で自分は腹を立てていたのか!」とそんな自分を可笑しく思う時が訪れるそうです。

確かに、まだ流し去れていない感情以外のものは笑い話のようになっていますし、心の中で解決出来たからなのかあまり覚えていなかったりもします。

感情を切り離して生きていくのは無理です。
私たちは人間なのですから。

感情を見つめ、どう対処するのか?
感情をコントロールするのは難しいですが対処は出来ると思います。

対処することに慣れてくると、感情自体を楽しめるようにもなると思います。

感情から受け取るストレスを少しでも軽減し、自分を癒やし、労りながら、優しく生きていく。

学ぶ事によって生き方が変わる。
学びは癒やしにつながる。